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朝吹真理子「TIMELESS」を読みながら考えたこと

嶌山景

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気になって仕方ない小説がいくつかある。私にとってとても重要な作品である、という確信だけがあって、にもかかわらず(であるからこそ)容易に核心に迫ることができない。触れられそうに思って手を伸ばしても、それはただの目の錯覚に過ぎず、星々は依然として遥か彼方で瞬いている。この連載では、そういった小説を各回一作ずつ取り上げる。いったいなにが私を惹きつけてやまないのか、単純化や矮小化からはできるだけ距離をとりつつ思考し、その過程をエッセイとして残していくつもりだ。言葉はしどろもどろにならざるを得ないだろうし、点と点を繋ぐ線はひどく蛇行するだろう。書評のような読みやすい文章にもきっとならない。あらすじさえろくに書かないかもしれない。思考の赴くままに書くつもりだから、小説の内容とは関係のないことばかり書き連ねるかもしれない。しかし、それでいいと思っている。そのたどたどしさは間違いなく作品によってもたらされ、促されたもののはずだから。エッセイの内容から遡るかたちで作品そのものに興味を持つひとがひとりでもいたなら、とてもうれしい。



恋愛感情も性関係もないまま結婚をした、うみとアミ。高校時代の教室、広島への修学旅行、ともに歩く六本木、そこに重なる400年前の土地の記憶、幾層ものたゆたう時間――。ぎこちない「交配」を経てうみは妊娠、やがてアミは姿を消す。2035年、父を知らぬまま17歳になった息子のアオは、旅先の奈良で、桜を見ていた……。(新潮社webサイトより引用)

 ひどく気分が落ち込んでいるときは、自らこしらえたネガティブな言葉が頭の中を駆け巡るばかりで、他人の言葉がなかなか入ってきてくれない。だからひとと話してもどこか上の空になるし、本を読んでも文字から意味を汲み取ることができない。自らの言葉に窒息しそうになるのはなかなかしんどい。動悸がしてくるし、なにも手につかない。なんとか外部の言葉を取り込もうと思うのだけれど、息継ぎはたいてい失敗に終わり、焦燥はますます募っていく。そんなときはすがるような思いでこの本を手に取る。そこに書かれた言葉だけが、私にやさしく浸透してきてくれることを、これまでの経験上知っている。ほかになにも読めないときでも、どうしてかこれだけは読むことができる。

もしまたべつの生きものとしてこの世にあらわれねばならないとしたら、なにに生まれたい。(p.5)

私は、クラゲに生まれ変わりたい、と言った。クラゲ? そうクラゲ。かわいいから。やわらかいガラス細工のような無脊椎の生きもの。半透明の傘をもつ放射相称動物、触手を水のなかでゆすりうごかすだけの生きもの。暗下、凝る月、海の月、水の母とも書く。ラテン語で美しいという言葉から派生した名をつけられ、六億年前から形態の変わらない、洗練された海の生きもの。水棲生物らしく、ほとんどが水分で構成される。ゼラチン質のやわらかな傘を収縮して、からだ全部が一個の心臓のように拍動する。時間帯によって、くちになったり、消化したり、排泄したり、人間であれば分散されて同時に動く器官の働きを、一日のあいだで、なんども、ぜんたいでひとつの器官になって、おこなう。ひたすら海流に浮遊する。意思らしいものがないところがクラゲの最も美しいところだ。眼球がないから、閉じることもなければ開くこともない。それでも、からだに張り巡らされた神経回路があるから、からだのすべてが一個の目にもなっている。人間のように、口と肛門とをわけなくていい、ただ開口部と呼ばれる器官だけがある。感覚はいつも外に開かれている。(p.6-7)


 人生は決断の連続だ、という言葉を目に耳にするたび、当然その通りだろうとまずは思い、本当にそうだろうかと思いなおす。決断というよりむしろ、無数の決断の回避によっていまの私があるような、そんな気がしてしょうがない。決断しないこともまたある種の決断なのだと言われればそれまでだが、やはり実感として私は、ろくになにも選んでこなかったように思う。ただ水の流れに身を預けて、ぷかぷか漂うようにして生きてきた。これからもそんな風に生きていくだろう。先のことはわからないが。

 なにとなく潮目に流されてアミにあった。それでたまたま隣にいる。(p.12)

 ひとは自らの独立した意思だけでなにかを選び取るのではない。主体性なんてものは結局のところ幻想でしかない。そのときの天気が、腸内環境が、手に持っている缶コーヒーの冷たさが、時計の秒針の立てる音が、つないでいる手のあたたかさややわらかさが、今朝見たニュースに付随する悲しみが、辺りに漂う銀杏の匂いが、頭皮のかゆみが、意識に上らないほどの控えめさで、けれどたしかにひとの思考を導いている。ひとは世界と共に、環境と共に考えている。
 私はいま、いくらかかじかんだ指でMac Bookをタイピングすることによって、この文章を書いている。ノートに手書きなら、スマホのメモアプリにフリック入力なら、音声入力なら、いまのこれとは異なるリズムやうねりを持った文章が、きっと生まれるはずだ。文の呼吸だけでなく、その意味するところや内容、思考の向かう方角さえまるっきり変わってしまうかもしれない。

 ネタバレになるのでタイトルは伏せるけれど、私の好きな小説が映画化されたとき、結末部分の展開に原作と大きな違いが生じていた。原作ではある登場人物が、また別のある登場人物を死なせてしまうのだが、映画の方では死なせることなく幕が閉じる。たしかネットにあがっていたインタビューで、そのことについて質問された監督が、興味深いことを言っていた。そのシーンの撮影日にもしも雨が降っていたなら、原作通り死なせることになっていただろう、と。しかしその日は晴れだった。だから死なせずに済んだ。そういう風に映画を撮るひとがいて、そういう風に撮られた映画がある。

 なりゆきだった、ぜんぶ。たいせつになったなりゆきだった。(p.264)

 高校時代の友人の結婚式に出席した帰り、うみとアミは途中でタクシーを降りて、六本木を歩く。四百年前、麻布が原という地名で呼ばれていたそこで、徳川家二代将軍秀忠の妻だった江姫の遺体が焼かれた。遺体の腐敗臭をかき消すように、大量の香木が一緒に焚かれた。辺りには帯のような香咽がたなびいた。化粧品メーカーで香料の研究をしているアミは、だから一度そこへ来てみたかった。そこを歩いてみたかった。

永井荷風がいとしいひとをたずねたという坂を、くだっているのかのぼっているのかわからないまま、歩いている。私たちはいとしい間柄ではないまま、歩いている。江戸時代は与力の住む地域だったから、犯罪者をこの谷に追い込んで捕まえたのだと、また急にアミがものを知ったように話す。アミのからだを通して誰かが話している。私たちはさっきから体になにかを通して話している。道に瘞れていた声が、私たちの器官を通ってなにかしゃべっている。誰の声、というのでもないのだろう。アミはずっと空ばかり見ている。(p.26)


 毎日いろいろなことが起きて、それは私の身の回りだけでもそうなのに、世界中で絶えずできごとが生じていて、それらの一部が私の記憶を上書きする。脳のキャパシティなどたかが知れていて、なにかを新たにストックするたび、古く優先度の低い記憶が追い出されてしまう。優先度が低いからといって大切でないわけではないから、簡単に忘れてしまいたくはない。ではどうするかというと、身体からこぼれ落ちた記憶を、私たちはどうやら世界の側に埋め込んでおくらしい。地図アプリにピンを立てるみたいに、その場に記憶を留め置いているようだ。きっとだれもが意図せずそうしているのではないか。街のあちこちで、繋留された記憶が揺れている、そんなイメージ。私から漏れ出した記憶は、もはや私だけのものではいられない。そこを通り過ぎる知らないだれかが、私の記憶にうっかり触れて、知らない懐かしさに立ち止まったりする。 
 散歩とは、ただ歩行に集中することではない。散歩とは、意識を散らしながら歩くこと。散漫さでもって、道にうもれた声に遭遇すること。本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりしていても、だれかの記憶のようなものにうっかり触れて、鳥肌が立つことがある。
 知らないのに、知っている。
 この感覚はなんだろう。

 花火大会の爆発音が怖い、東京大空襲を思い出すから。そう言っていたのは誰だったか。絨毯爆撃。三百機のBー29が降ってきてね。知らないくせに。尾を引く玉が、怖い。しらないくせに。でも誰かが言っていた。(p.123)

 

グラバー邸の帰りに、着物姿のブロンズ像を見ると三浦環と書いてあった。誰? うみさんは、しばらく考えて、あ、「蝶々夫人」を演じたひとだ、と言った。あるはれたひに。アミのお母さんが好きな歌だった。アミのお母さんの声をうみさんは知らないのに、なつかしそうに、言った。(p.200)


 散歩することと、文章を書くことは似ている。 
 言葉はだれのものでもあり、また、だれのものでもない。言葉の意味は辞書的な意味に留まらず、使うひとの記憶や経験、または世界の歴史などと密接に結びついている。だから文章を書くとき、私たちは常に自らの意図を超えたなにかを、そこに宿さずにはいられない。「戦争」と書くとき、「幸福」と書くとき、「愛」と書くとき、無視できない差異を孕んだいくつもの概念や、具体的なだれかとの思い出、事件や出来事なんかが、生起したばかりのそのたった一語に、たちまち引き寄せられてくる。言葉はどこまでも個人的でありながら、同時に途方もないほどの公共性を具えてもいる。文章が言葉を素材として用いる以上、書いているとき書き手はひとりではいられないし、それとまったく同じ理由で、読むものもまたひとりではいられない。雑踏に迷い込むようなものだ。どうしようもなく他者の声が鼓膜を震わす。耳をふさぐことはできない。クラゲと同じように、ヒトもまた外へと開かれている、身体だけでなく、言葉をも媒介にして。知らないはずの過去にも、知りえないほど遠い未来にも、会ったことのないだれかにも、抗いがたく開かれている。良くも悪くも。
 たとえば、最果タヒの詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』に収められている「愛」と題された詩に、次のような箇所がある。

愛している。という言葉をのべたとき、口から、血の匂いがする。「愛」
という言葉には歴史上のこれまでの人類すべての「愛」の定義が蓄積さ
れていて、なんだか血のにおいがする。それをかみしめて、繰り返して
いけば、いつか吐血する予感があった。(p.46)


 ひとの想念の襞の多さと比較して、私たちが日常的に用いる言葉のなんと少ないことか。その足りなさを前にして、私たちはしばしば言葉を失う。口ごもり、閉口する。自分の中に適当な語彙が見当たらないという事実を告白することでしか、あの巨大な感動を表現することができない。代わりのいるはずのないあなたを、ほかでもない私がどれだけ大切に想っているか、寸分たがわず伝えたいのに、口から出る言葉は「愛している」というクリシェなのだ。それは「大好き」であっても同じことで、気持ちに偽りはないはずなのに、言葉にした途端、決定的に損なわれるなにかがある。手垢まみれの言葉が、ふたりきりの空間に知らないだれかを招き入れる。ではいったいどうしたらいいのか。自分が使うためだけに造語でもこしらえれば、それで解決するのだろうか。しない、のではないか。
 菅啓次郎『本は読めないものだから心配するな』をぱらぱらめくっていると、次の箇所に目が止まった。

「猫」のことなら、みんなが知っていると信じている。てんでありふれた、愛想があるのかないのかわからない動物だ。しかしその猫が「おわあ、こんばんは」と挨拶しあったり、「ここの家の主人は病気です」と噂話をしていることは、萩原朔太郎が「猫」を書くまでは誰も知らなかった。あるいは、さらに何の秘密もない「犬」。けれどもやせこけた野良犬が、あるいは「北京原人の大腿骨にかぶりつきたい」とか「ゲッセマネの園でおすわりしたい」などと思っているかもしれないこと、そして口をあけたまま横町をめぐるそいつが「でっかい骨ないよーお」「でっかい あくびしてないよーお」とつぶやいていることは、吉増剛造が「野良犬」を書くまでは世界に存在しなかった思考なのだ。
 詩人はこうして、「猫」という言葉=字、「犬」という言葉=字を洗う。洗うとその言葉=字はとたんに生命と運動を思い出し、新鮮な魚のように跳びはねて、匿名の水流へとぽちゃんと逃げてゆく。言葉は止め、止まっていた。その「止まり」がゆらぐような時を作り出す。詩人の仕事を、たとえばそんな風に定義することができるかもしれない。(p.64-65)


 使い古された言葉=字を匿名の水流へと帰してやること。おそらく肝要なのはそれだ。最果タヒの「夏」の、先に引用した箇所に触れて、読者は「愛」という言葉にまとわりつく血の匂いを、はじめて嗅ぎとるのかもしれない。仮に嗅ぎとらなかったとしても、血の匂いに悩まされながら愛を伝える語り手のようなだれかがいることを、はじめて想像してみるのかもしれない。
 語彙は無限ではないし、無限を目指して増殖していくべきでもない。そうなってしまえば、簡単なコミュニケーションさえままならなくなるだろう。有限の語彙を使って、いまここで私に生起した、このなにか、を表現すること。言葉にできないものやことが、それでもなんとかぎりぎりのところで言葉になったとき、そのなにかは詩と呼ばれる。 
 散歩から散文へと連想をつなげて書いていたつもりが、いつのまにか詩の話になっていた。けれどこれは、あらゆる芸術に共通する話だと思っている。ある種の作品は、それまで当たり前だと思われていた認識をがらっと変えてしまう。たとえばジョン・ケージの「4分33秒」が静寂を演奏してみせたように。たとえばマルセル・デュシャンの「泉」が便器を芸術作品として成立させてみせたように。たしかに芸術は、金や政治や暴力が持つような世界への直接的な影響力を持ち合わせていないかもしれない。それでも、ひとりの人間の認識くらいなら、大きく変えてしまう可能性がある。認識が変われば、必然的にそのひとにとっての世界も変わる。変わってみえる。地動説が、相対性理論が、量子力学がもたらす変容に負けず劣らない衝撃が、たとえば一編の詩としてあなたに手渡される。そして、あなたというあり方を揺さぶるかもしれない。詩でなくてもいい。詩のかたちを失っても詩として存在できる詩はいくらでもある。絵でもいいし、写真でもいい。映画でも、音楽でも、演劇でも、彫刻でも、インスタレーションでも、踊りでもいい。なんでもいい。もちろん小説でも。

 書くことと読むこと。
 自分で書いたものを自分で読むという経験が、ひとりをふたりへ分裂させる。そしてその繰り返しが、数え切れない数の私を生む。かつてそれを書いた私と、いまそれを読む私。それらのあいだに流れる時間と、時間に含まれる感情や経験。数多の私たちは同じようで異なっている。いまの私が感じる違和感を、完全には消し去ってしまわないように推敲する。そうしてあたたかく矛盾を孕んだあたらしい私として、作品が完成する。
 話すことと聴くこと。
 ひとりごともまた、おそらく他者としてのもうひとりの私へ向けた、私からの発語なのだろうという気がする。口から発された言葉を耳が聴く。クラゲと違ってヒトの身体はいくつもの器官にわかれている。口である私の言葉を、耳である私が聴く。一人称の語りで進行する小説において、登場人物はなぜこれみよがしに言葉を発しているのか。その動機はこういうところにあるのかもしれない。読者に向けてというより、もうひとりの私に向けて、あるいは無数の私たちに向けて、なんらかの変容を促しているのかもしれない。

 都会の過剰な電飾、白く眩しいスーパーマーケット、日々眼球をいじめるブルーライト。谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で指摘した暗がりの美学は、時代の進行とともにますます忘れ去られていくようだ。なにもかもがあけすけで、すべてを明るみに出さないと気が済まない、そんな世の風潮を感じる。秘密を持つことの甘美さなんて、滅多に省みられることはない。明るく清潔、安全で、健康な社会。だれもが安心して暮らせる世の中。けれどそこで謳われる「だれも」に、だれもがカウントされるわけではないらしい。すくなくとも私は違和感を覚えているし、身の回りの大切な友人たちもまた、この社会に憤りを覚えている。明るすぎて想像の余地がない。自他の境界線がはっきり目に見えて、ほとんど混ざり合えそうにない。
 「TIMELESS」には親密な暗がりのシーンがいくつもあって、だからだろう、読んでいてとても安心する。修学旅行先のホテルの薄暗い部屋で、ふたりきりで残ったゆりちゃんとうみはキスをする。外界から隔てられた半地下の寝室で、うみとアミはふたりだけの関係性を構築していく。地震で停電になったときは、のんきなカリプソをレコードでかける。

「電気が来ない日には電気の通わない時代の音をきく。」(p.147)

わたしたちはますますくらいものになって歩いている。(p.27)

 暗さの中を歩き、暗さそのものとなって歩く。そうしてはじめて、語り手として数多の声を通り抜けさせることが可能になる。私とあなたの境界が曖昧になって、私が知らない私やあなたを、あなたが知らないあなたや私を、どちらともなく語ることができるようになる。


 死について。
 この小説は死の気配に満ちている。だからといって重苦しく暗い物語になっているわけではなく、生の前提条件としての死が、当然のこととして、通奏低音として響いている。その一方で、戦争がもたらす不条理な死も描かれる。自然な死。不自然な死。どちらともいえない死。

ねえ、ゆりちゃん。ゆりちゃんがもう死んでいることがよくわからない。ゆりちゃんの話を誰ともしないからかゆりちゃんが死んでいることがいつまでもわからない。(p.102-103)

 日常生活において、ほかのひとがどうかはわからないが少なくとも私は、どうしても死について、死んでしまったひとたちについてオープンに話すことができない。話せないからひとりで思い出すことになって、そうすると次第に死んでしまったひとの像は固定化されていく。書けばよかった、といまなら思う。書く私と読む私で、なんとか言葉を探していけばよかった。でもそうできなかったから、どんどん思い出せることが減っていった。やがて、真っ先に思い出す顔が遺影の表情になった。いろいろな顔を見てきたはずなのに。

ゆりちゃんは下まつげが長かった。体毛が銀色で薄かった。ゆりちゃんはまばたきがひとより遅かった。ゆりちゃんは足が速かった。たしかリレーの選手をしていた。誰よりもかったるそうに、でもスピードが速かった。そういう話は誰もしない。(p.69)

 ここを読んだとき、小説の記述は死者を遺影から解放し得るのかもしれない、と思った。うみもまた私と同じように、身近なひとの死をどのように考えていいのかわからない。わからないからこそ思い出すことだけは手放さずにいるのかもしれない。思い出しては言葉を探し、言葉を見つけてはまた思い出す。詩人が言葉を匿名の水流に帰すように、うみはゆりちゃんを遺影から救い出し続けているのかもしれない。

 佐々木敦『私は小説である』の「死んで いる者たち」という章から一部引用して、結びとしたい。「TIMMELESS」を読みながら、私は次の文章を何度となく思い出していた。

二冊の本はどちらも「彼女の父親」がいなくなる話だ。いや、いなくなったが、いる、いないのに、いる、という話だ。いるといないは、いないといるは、どこがどう違うのだろうか。どこも違わないのだろうか。私は何度か、演劇とは、ここにはいないひとを、ここにいるひとが、ここにいることにすることだと述べてきた。それを男(大)は、今は小説というかたちでやっている。こう言い換えることも出来る。死んでいる者たちを、死んでいない者たちが、死んでいないことにする、いや、死んで、だが、いる、ことにする。たぶんそれが、芸術と呼ばれているもののひとつの機能なのだと思う。(p.432-433)

 「二冊の本」とは飴屋法水『彼の娘』、山下澄人『ほしのこ』のことで、「男(大)」とは山下澄人のことだ。「死んで いる者たち」の構成を考慮するとこの注釈は無粋かもしれないが、興味を持たれた方のために念のため付記しておく。

引用
朝吹真理子『TIMELESS』新潮社、二〇一八年。
最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア、二〇一六年。
菅啓次郎『本は読めないものだから心配するな』筑摩書房、二〇二一年。
佐々木敦『私は小説である』幻戯書房、二〇一九年。

<PEDES連載エッセイ「綴ら折り」第1回>

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