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大沼恵太「ゾロアスターの子宮」を読みながら考えたこと

嶌山景

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 気になって仕方ない小説がいくつかある。私にとってとても重要な作品である、という確信だけがあって、にもかかわらず(であるからこそ)容易に核心に迫ることができない。触れられそうに思って手を伸ばしても、それはただの目の錯覚に過ぎず、星々は依然として遥か彼方で瞬いている。この連載では、そういった小説を各回一作ずつ取り上げる。いったいなにが私を惹きつけてやまないのか、単純化や矮小化からはできるだけ距離をとりつつ思考し、その過程をエッセイとして残していくつもりだ。言葉はしどろもどろにならざるを得ないだろうし、点と点を繋ぐ線はひどく蛇行するだろう。書評のような読みやすい文章にもきっとならない。あらすじさえろくに書かないかもしれない。思考の赴くままに書くつもりだから、小説の内容とは関係のないことばかり書き連ねるかもしれない。しかし、それでいいと思っている。そのたどたどしさは間違いなく作品によってもたらされ、促されたもののはずだから。エッセイの内容から遡るかたちで作品そのものに興味を持つひとがひとりでもいたなら、とてもうれしい。




 私は表現形態を問わず魔術的、迷宮的な作品に惹かれることが多く、たとえばそれはDos Monosの音楽であり、今敏のアニメであり、清原啓子の銅版画であり、小池桂一『ウルトラヘブン』であり、Dr. Wooのタトゥーであり、そして言わずもがな大沼恵太「ゾロアスターの子宮」である。全体的な印象としては混沌としているが、作品に固有の論理にたしかに貫かれている、そう信じられる作品に心を奪われる。ただのカオスを表現することはさほど難しくないだろう。めちゃくちゃやればそれでいいのだから。難しいのは、混沌の荒波を乗りこなすこと、借り物ではない独自の秩序を、必要とあらば一から発明し、打ちたて、作品として成立させてみせることだ。そうして生み出された作品は大渦のような求心力をもち、相対するものをその内部へと否応なく引きずり込む。お上品な鑑賞など許されない。われわれに求められるのは、きわめて能動的な参加、体験、そして戦慄だ。その特異な経験が私に「私」を見失わせる。現実と想像の境界線は絶えず引きなおされ続け、時間の感覚はひどくぬかるみ、既知と未知はひとつの円環を成し、もはや見分けがつかなくなる。次から次へと立ち現れる、どこかなつかしいはじめての光景。

 とはいえ、そういった作品から受け取ることができるものは、きわめてこんがらがったなにかの塊であって、容易に言語化することができない。ただ好きであると表明するばかりで、自分がどこをどのように素晴らしいと思っているのか、うまく説明できたためしがない。別に説明する必要もないのだが、一度、自らの趣味嗜好に真っ向から向き合ってみるのもおもしろいのではないかと思い、こうして書き始めている。先行きはひどく不透明だ。どこにも辿り着かないかもしれない。それでも軌跡を残すことにはきっとなにかしら意味がある。


 妹は二階の部屋でいまだに眠り続けている。一方、両親のうちの一人は階段の途中で立ち往生している。檻のように一度入ったら出られない場所を発見し、身震いがするままになっていたのだ。妹のいる二階の部屋には誰もたどり着けないでいる。二階の部屋において、意識はすでに天井を見つめていた。(『ことばと vol.3』p.164)



 小説はこのように始まる。冒頭を読むだけでも、なにやら異様な雰囲気を感じずにいられない。一文目から使われる「いまだに」という言葉。「両親のうちの一人は」という遠回しな表現。「檻のように一度入ったら出られない場所」とはいったいどのような場所か。五文目で改行もなしに突如切り替わる視点。これはだれに、あるいはなにによって語られている文章なのだろうか。読者の関心を引くため書き出しこそ謎めいているものの、読み進めればなんてことはなかった、という小説は世にごまんとあるが、「ゾロアスターの子宮」はそう簡単にいかない。先へ進めば進むほど謎めいてゆく。謎がさらなる謎を呼び、混乱が次なる混乱を用意する。しかもどうやら、次から次へと立ち現れる謎たちは、紐解かれることを期待していないように思われる。ニック・ドルナソのグラフィックノヴェル『アクティング・クラス』の帯に、武田砂鉄は「共感より、混乱こそが快楽になるのだ。読めばわかります。」とコメントを寄せているが、「ゾロアスターの子宮」にもまったく同じことが言える。


 もっとも、この家に二階はもともとなかった。増築工事によって平屋の家に新しく二階が付け加わったのだ。三か月ほどにわたる増築工事で、門から玄関までの比較的広いものであった庭を潰したスペースに細長い二階建てを新たに建設し、正面の壁を取り壊した従来の家と接着させたのだ。この工事のせいで両親と妹の住む家は、横から見るならば、L字型の奇妙な形のものになった。「家の形は人の思考に影響を及ぼす。したがって、奇妙な形をした家に住む人は奇妙な考え方をするようになり、そんな家では問題が起こりがちになる」そういった事実が研究者たちによって喧噪される前の時代のことであって、両親もその家で成長を遂げるはずの妹も知らなかった。(p.165-166)

 

 引用部にある通り、一家の住む家は三ヶ月ほどの増築工事を経た末に、L字型の奇妙な形のものとなり、そのことが原因でおかしな問題が生じ始める。


 ひとつ目の問題は、家にもともとあったものがなくなってしまうこと。冷蔵庫のなかの食料品や、衣料用洗剤や固形石鹸の箱、菜箸に西洋食器皿、父親がコレクションしているレコードの一枚など。それから、きわめて細長い砂時計のようなかたちの、ふたつでワンセットになったグラス。そのグラスはあまりにも安定性に欠けているため、使用を避けられていた。「父親の脳裏には、失敗した自分が破損させたグラスの破片をリビング中に散らばらせている情景が浮かんでしまうのだ。」(p.171) すこし情報を付け加えれば、そのグラスは父親と母親の婚姻が決定した際に、親族から送られた贈答品であった。発送元の住所は母親の従前の本籍地で、母親が幼少期の二ヶ月間だけ過ごした街だという。「母親はとても白っぽい奇妙な形の家が立ち並ぶエリアを歩いていたことを思い出した。」(p.172)


 ふたつ目の問題と三つ目の問題はどうやら関連しているようだ。テレビの画面がモノクロの映像に変化するようになったこと。それから、家のなかにネズミが増えたこと。ネズミがテレビの後ろを通るときだけテレビの画面がモノクロに変化する、と父親は考え、ガラス片を家のなかに撒き、餌と間違えて喰らったネズミが死に至ることを期待する。なんともいかがわしい作戦に思えるが、その後、実際にテレビの裏でネズミの死体が発見されるようになる。


 さて、妹に言わせるならば、ものがなくなっていくのにも家の中にネズミが増えていくのにも共通の原因があるのだった。これは妹の日記の中に書かれていた見解である。父親が母親より妹が続けているのだという日記の存在を知らされて以降、日記は家族全員の共有物になっていた。少なくとも両親のほうはそのつもりであった。先に述べたように妹に対して両親の記憶は後ろ暗い。だから、妹の生態を知りたいというより、過去の一日の正誤を確かめてみる必要性を感じていたのだ。妹の日記は、何が本当に起こったことなのかを決める、答え合わせ用のテキストとして記憶の足りない彼らに重宝されていたということだ。(p.175)



 妹の見解によると、問題の原因はひとりの老婆なのだという。老婆はつねに家のなかにいて、ものを勝手に盗んだり、ネズミを放ったりするらしい。だがここで重要なのは、その見解の真偽ではなく、この一家において妹の日記が果たしている役割だろう。父親は記憶力が弱く、母親はもともと優れた記憶力を持っていたが、父親との暮らしを通してその力を失っていったのだった。記憶のおぼつかない両親は妹の日記にすがり、そこに記された自分たちの過去を読む。自分たちの存在の根拠を求めるように。しかし、「ときおり、妹は両親に対して他愛のない嘘をつく」(p.165) ものだから、もはや両親にとって信頼に足る地盤は存在しない。それは読者にとっても同じことだ。真実を見極めようとしてなされる努力は、徒労に終わることをあらかじめ運命づけられている。

 母親と父親と妹はひとつ屋根の下で生活を共にしながら、それでいて、ろくになにも共有していないように思われる。みんなで囲んでページをめくれるような一冊のアルバムすら持ち合わせず、三人は三人とも、それぞれの現実の檻に閉じ込められている。固着されたイメージの束であるアルバムの代わりに、参照されるのは不確かに揺らぐ妹の日記であり、そこに記された文字群はさながら逃げ水のように、読者(「両親」であり、私たちでもある)を弄ぶ。一家に欠けているのは客観的な事実であり、一方で過剰なのは信頼できない主観性だといえる。だれかひとりにとって自明と思われていた現実/記憶が、ほかのふたりには存在しない。ふたりにはまた別の現実/記憶があって、それが彼/彼女の現実/記憶と著しく矛盾する。

 ひとりの人間は、生きた文脈である。その文脈は生きているが、生き生きとした状態を保てるかどうかは、そのひとの生き方にかかっている。油断すれば簡単に自らの過去や思考のパターンを文章の由来として採用し、自家薬籠中的にその文体を固く閉ざしたものとしてしまう。固くなればなるほど、他の文脈と交わることが難しくなり、いつしか完全に石化してしまうだろう。文脈は滞りなく流れていなければならない。石より川。わかっていてもなかなか難しい。


ねえ、君は自分の眠りの中でいったい何を見ているの? (p.181)


これを最後に家の外に放り出されたままの父親は、家の中には入れていない。こういった話を、リビングのソファ(最近では妹の日記を話し合うのに利用しているものだった)に座り、その時の不安な気持ちを継続させたまま「どうにかあなたにはわかってほしいのだ」と、父親は母親に語り聞かせていた。(p.179)


「映し出された角度によって、光の色が異なっておりますね」(p.184)



 この一家だけでなく、私たちはひとりひとりが頑強な壁に覆われた家のようなものである、といって過言でない。外からよその家のリビングの様子がうかがえないように、誰かが生きている内面の現実を、別の誰かが生きることはできない。できることなら代わってあげたい、という慰めの言葉は、代わってあげられないことの孤独を浮き彫りにしてやまない。なにも私は、ひととひとは結局のところわかりあえないものだ、などというありきたりな言説を支持したくてこんな話をしているわけじゃない。わかりあえないからこそ尊いのだ、という半ば強引な開き直りをいまさら支持したいわけでも、まったくない。私は他者とのあいだになんらかの通路を設けたいといつも願っていて、たぶんそのためにフィクションや芸術について考えている。そこにこそ方途があるのだと、常に愚直に信じている。そのためのヒントが「ゾロアスターの子宮」に隠されているのだと、たぶん私は感じていて、それでこの文章を書いているのだと思う。

 江戸川乱歩の「鏡地獄」は、鏡の不思議に取り憑かれた青年の破滅を描いた短編だ。学校を卒業した彼は病死した両親から財産を受け継ぎ、家の庭に実験室を作る。そして、世捨て人のように俗世から隔離された環境で鏡やレンズの研究に没頭するようになる。友人である「私」の心配をよそに、彼は自分の世界に病的なまでに埋没していく。そしてついには、直径四尺ほどの、内側に一面の鏡を張ったガラス玉を職人に作らせ、その中に入り、出られなくなってしまい、発狂し、狂ったままこの世を去ることになる。彼は球体の内部でどんな像を目撃したのだろうか。「私」は知る由もない。


そこには彼の姿が彼としては映らないで、もっと別のもの、それがどんな形相を示したかは想像のほかですけれども、ともかく、人間を発狂させないではおかぬほどの、あるものが、彼の限界、彼の宇宙を覆いつくして映し出されたのではありますまいか。(新潮社『江戸川乱歩傑作選』p.308)



 この恐ろしいラストはきわめてフィクション的でありながら、しかし現代を生きる私たちにとって他人事ではないリアリティを持っている。なぜなら私たちは、庭に実験室を建造することなく、また特別な知識や執着を持ち合わせるまでもなく、一流の職人にオーダーする手間もなく、スマートフォンというデバイスに整形された狂気のガラス玉を、どこへでも携帯できるようになって久しい、そんな時代を生きているのだから。

 木澤佐登志は『失われた未来を求めて』のなかで、次のように書いている。

個別化された環境は、過去の自分の選択と矛盾しない結果となるように選択を誘導することで、視野を広げるよりはむしろ狭める。考えてみれば当然だ。というのも、環境の個人化の際に用いられるプロファイリングは、当人の過去の行動記録をベースにしているからだ。「個人化された環境」、それは過去の自分の似姿が無限に乱反射する鏡地獄である。(p.282)


 アルゴリズムがもたらす鏡地獄において、未知なる他者との真に偶然な遭遇はあらかじめ排除されている。AmazonやYouTubeやNetflixは、私よりも私を知っているのではないかと、ときどき思わされることがある。フィルターバブルの内側で好きなものにだけ囲まれて、ひとびとは見たいものだけを見るようになり、知りたい情報だけを知るようになる。徹底されたノイズキャンセリングの時代だ。「彼」に訪れた発狂は、いまでは薄く引き延ばされ、日常に溶け込んでしまっている。

 二月四日

 いつもより早く起きる。虫に関係のある夢を見た、ような気がするが詳細は思い出せない。相変わらず寒いがとても天気が良い。最近でいちばん空が青い。昼前に家を出て、駅に向かう。ピンクのオールスターを履いていく。友だちと竹橋に大竹伸朗展を見に行く約束をしている。髭ダンを聴きながら向かう。遅刻しそうだったのに、なぜか待ち合わせの時間より早く着く。合流後、スタバで軽く腹を満たす。大きなホットドッグとスコーン、アイスのチャイラテを注文する。はじめてチャイを飲むように思うが、どこかで飲んだことがあっても不思議じゃない。会期が明日までということもあってか、美術館はとても混んでいるが、予約していたのですんなり入場できる。小さいお子さんも結構見に来ていて、テーマパークのような雰囲気さえ感じる。印象に残った作品があったので簡単に記録。スナックの看板を掲げた小屋。散らかった部屋の中央に、開いた状態の巨大なスクラップブック。小さな画面で映像が流れている。たしかふたつの映像。だれもいない室内で、建物が記憶を上演し続けている、そしてその記憶を、建物自体が解釈し続けている、といったようなことを考える。このごろ繰り返し読んでいる「ゾロアスターの子宮」についても考える。生きた家? 意思を持った建物? リチャード・マグワイアの『HERE』や、Netflix版の呪怨なども思い出す。蓄積された記憶の上演。あと、「A GHOST STORY」も。電車に乗って表参道へ。ヴォルフガング・ティルマンスの写真を見にヴィトンのギャラリーへ。とてもよかった。友だちのおすすめの喫茶店でプリンを食べる。ブランデーを垂らしてくれるのがうれしい。もう一箇所ギャラリーへ行き、それから青山ブックセンターへ向かう。『黒人音楽史』と『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』を購入する。すぐ近くのやよい軒でご飯を食べる。おかわりのご飯が茶碗へとパラパラ落下する様がおもしろい。食べ終わって解散する。ウ山あまね『ムームート』を聴きながら帰る。駅から家までのあいだ、知らないひとに手招きされる。コンビニでアイスを買って家に着く。さっそく、買った本を読み始める。

 サンプリングベースのヒップホップのウワモノの魅力のひとつは、「デペイズマン」という言葉で説明できる。デペイズマンとは主にシュルレアリスムの文脈で用いられる考え方で、本来は遠く離れたものを出会わせることで特殊な効果を生む手法を指す。フランスの詩人ロートレアモンが「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように美しい」と書いたように、マックス・エルンストのコラージュ、ルネ・マグリットやサルバドール・ダリの絵画などに見られるような、異質なものの邂逅がもたらす驚異だ。(ジョーダン・ファーガソン『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』p,218)



 引用箇所は訳者の吉田雅史による解説の一部。

 こういうことをずっと考えていたのだ、と思わずハッとさせられる文章だった。私は以前からヒップホップを聴くのが好きで、ヒップホップが用いるサンプリングやライミングという手法が好きで、またシュルレアリスムの絵画やコラージュの作品にも、魅了されることが多かった。それらに共通する、違和や矛盾をあえて孕ませた上で再構成してみせる手さばきに、汲み尽くせない可能性を感じてきた。異なる文脈を繋ぎあわせることに。美しいものと醜いものを同一平面に並べて価値観を転覆させてみせる、そのアナーキーなユーモアに。

 続いては神保京子による文章の引用。

 デペイズマンの語源となる「デペイゼdépeyser(他動詞)」とは、天地や国外追放、さらに異なる環境に身を置くことを意味するフランス語である。さらにこの言葉には、違和感や居心地の悪さを人にもたらすという意味が含まれている。地上に存在する万物それぞれが、機能性や期待される役割を備えた対象物であったとき、それらが慣習や一定のルールからかけ離れた別の場所に置かれたとしたら、我々は一瞬混乱し、胸騒ぎを覚えるだろう。(『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇跡』p.195-196)



 「ゾロアスターの子宮」において、文脈をシャッフルする重要な役目を担うのは、おそらく「家」だ。ここでは家が主語として機能している。盛大な誤読かもしれないが、私はそんな風に読んだ。DJとしての家。サンプリングし、ビートメイクする家。文脈として存在する家族の成員たちを、その現実/記憶を刻み、抽出し、時間軸をいじり、違和が最大化する位置へと並べかえる。あるいは家族のメンバーを使って韻を踏む、と言い換えてもいい。DJであるばかりか、MCでもある家という存在。やや乱暴なやり方で、家は父親と母親と妹に、混乱を、胸騒ぎを覚えさせる。そのノイズは不可視の振動でもって、個人の世界の絶対を震わし、揺さぶりをかける。

 「ごかい」と「瓦解」。それぞれの身体に見つめられる同じ天井。ガラスの破片。チキンレース。腹の肉。モノクロ。インターホン。匍匐前進。韻を踏むいくつもの描写と、全体を貫くいくつもの謎、不在、一族の記憶。ウロボロス的に環を閉じるそれぞれの鏡地獄と、それらの外部へ手招くひと。

 さっきはスマートフォンを悪役として書いてしまったが、うまく使えばなんだってノイズを発生させる強い味方になるのだと思う。私にはいまのところその方法まではわからないが、既にそうした使い方をしているひともたくさんいることだろう。

 私を覆う球体を、自己言及的なガラス玉から、生成変化を促す繭へと変質させること。そのためにはなにが必要だろうか。エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』がこの問いに重要な示唆を与えてくれる。鍵となるのはひとえに「技術」である。

反対に、繭が具現化している技術の考えでは、世界を操作することは、自分自身の本性を手放すこと、その本性を外部に投影するのではなくみずからの内部で変化させることを可能にするものとなる。技術――繭――とは、あらゆる生きものが自身ととりもつ形態であり、みずからの身体と同一性を根本的に修正させる形態である。自己とのあらゆる関係は卵を、つまり生まれたあとの繭を生み出す。この繭は世界を、自己を再生し作り直す空間にするのだ。わたしたちはこうした変貌を可能にする繭を各技術的対象のうちに見る術を学ぶ必要があるだろう。一台のコンピュータ、一台の電話、一本のハンマー、一本の瓶は、たんに人間の身体が拡張されたものではない――それらはそれどころか、個人の同一性アイデンティティの変化を、あるいは解剖学的な次元でないにしても、すくなくとも動物行動学的な同一性の変化を可能にするような、世界の操作なのである。一冊の本でさえ、みずからの精神の描き直しを可能にしてくれる繭なのだ。(p.80-81)



 私たちは繭のなかでこそ深く息ができる。断じて鏡地獄ではなく。繭のなかで在り、そして同時にひとつの繭として在り、あらゆるものを繭として用いながら在り続けよう。そこで、いやここで、私たちは変わり続ける。他者や世界へ絶えず開かれているために。川のように流れ続ける、うららかな文体として生きるために。



 引用文献

『ことばと vol.3』書肆侃侃房、二〇二一年。

ニック・ドルナソ『アクティング・クラス』早川書房、二〇二二年。

『江戸川乱歩傑作選』新潮社、二〇二二年(百九刷)。

木澤佐登志『失われた未来を求めて』大和書房、二〇二二年。

ジョーダン・ファーガソン『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』ディスクユニオン、二〇一八年。

『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇跡』青幻舎、二〇一九年。

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房、二〇二二年。



<PEDES連載エッセイ「綴ら折り」第二回>

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