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生めなくても苦しまない

二宮 豊

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 最近、Twitterで、新たなく作品を創り出せない苦しみ、いわゆる「生みの苦しみ」を感じたことがないという投稿を読んだ。曰く、アーティストたるもの、いつどんな時でも、インスピレーションに満ちているものだという。Twitterのおすすめ機能で流れついたツイートだった。ゆえに、だれが、どんな分野について、説明していたのか、記憶にはない。その時は、いつどんな時でも、作品ができちゃうなんて、すごいなあ、と思ったくらいで、情報の荒波にツイートは呑まれて消えた。
 思い返してみると、ぼくも生みの苦しみを感じたことは、じつは少ない。なぜなら、作品は、自分が書けるときにしか書かないからだ。というよりも、書けない。じゃあ苦しかったことは一度もないのか、と聞かれると、そんなことはない。苦しみながらも書いていたことはある。しかし、しっくりこないまま無理に書いた作品は、読み返してもつまらないし、なによりヴァイブスの不在で自分自身が納得できない。ということで、ぼくは書けないときは、諦めることにしている。ほんとうは、インスピレーションが無限に湧く泉から、言葉が溢れ出てくる、なんてことがあればいいのだろうけど、ざんねんながら、ぼくのための泉はいまだ森に隠されたままだ。
 じゃあ書けないときはなにをしているのかというと、よく英語の詩を翻訳している。自分のために訳しているだけなので、発表はしない。学生のころは、自分の和訳をこっそりとネットに掲載したりもしたが、いまや昔の話になってしまった。
 翻訳は難しいが、楽しい。まずは英語がきちんと読めなくてはならないのだが、これが難しいのだ。ネイティブであっても、英語が読めても、作品を理解できるわけではないのだから、翻訳がいかに大変な作業か、やってみるとよくわかる。これはもう訳しても、原文のよさは伝わらないよね、なんてこともよくある。これは詩の韻文という性質、そして、英語という言語の性質から、小説の翻訳以上に多いはずだ。しかしこれだという表現に巡り会えたとき、それらの困難は報われる。まあそんなことの方が少ないのだから、翻訳なんて生産性のない作業なのだろう。そして詩を書くなんて、いわずもがな。
 そんなこんなで、書けないときは、詩の翻訳をおすすめしたいわけだが、それでも書かなきゃいけないんだよ。そんな詩人もいることだろう。朗報です。Chat GPTというものをご存知だろうか。ニュースでも取り沙汰にされている、最新のAI。彼(あるいは彼女)にお願いすれば、詩を書くなんてお茶の子さいさいです。
ぼくも一篇、お願いしてみたので、紹介しておきたい。題は「風を纏った存在」。

鼻先を突き出し、小さな耳を立てて
闊歩する姿は、まるで風を纏ったかのよう
走り出すと草原を翔け、
人々を魅了するその美しさは猛獣のよう


時には優しく、時には厳しく
人の姿を追いかけ、心を癒やす存在
陽気に駆け回り、人々の笑い声を引き出し
深い絆を築く、かけがえのない存在

心優しく、威厳あるその姿は
生命の神秘に満ち、生きる意義を教える
人生の儚さを感じる時、
ただただ傍にいて、寄り添ってくれる

犬という名前では語り尽くせない
神秘に満ちた存在、愛される理由
風を纏った美しさ、癒しの力
人生の中でいつも傍にいる、愛しき存在の一つ

どうだろう。こんなのもチャーミングでありかもしれない。だけど、この作品を読む限りでは、人が詩を書き、締切に追われる時代はまだまだ続きそうだ。


PEDES連載エッセイ「詩と投稿とサイバーと」1

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