ここでは世界の風化は早かった
目の前の景色はみるみる色褪せ
できあいの夢ばかり映されていた
(十田撓子『銘度利加』に収録の詩「鉱山町」より引用)
十代の終わり頃から、刺青が好きでいる。といって私の身体にはひとつの刺青も彫られてはいない。ひとの身体に彫られたものを見たり、タトゥーアーティストの作品を検索しては惚れ惚れと眺めたりするのが好き、ということだ。いずれ私も彫ってもらいたい、とはずっと思っているが、いまのいままで先延ばしにしてきたのはきっと、刺青のもつ絶対性、一回性にビビっているからなのだろう。そこにこそ刺青の美学が詰まっているというのに、我ながらおかしな話だと思う。けれど『刺青・性・死』を著した国文学者の松田修もまた、自身の身体に刺青を持たないまま、異端の芸術としての刺青に魅了され、研究を続けていたではないか。刺青は無頼のための芸術であり決して大衆に開かれるべきではない、と松田は主張するが、私もどこかで同じようなことを思っているのかもしれない。私にはその資格がない、と。
紙の書籍における文字は、言葉の刺青だと思う。印刷され綴じられてしまった一冊の本は、自身に刻まれた文字を、シールのように剥がして並べ替えることなどできない。誤植を含み持った本は、その誤植をも自らの宿命として生きるほかなくなる。印刷され本に収まった文字どころか、言葉というものがそもそも、刺青のような機能を持っているのかもしれない。
たとえば命名。
生まれたときにつけられた名を、私たちは生涯背負って生きていくことになる。姓が変わることはままあるにせよ、名前はほとんどの場合変わることがない。これが刺青でなくてなんだろう。赤く甘くみずみずしいあの果実を「りんご」と名付けたものは、りんごに「りんご」という名を刺青したのだ。「りんご」は想像もつかないようなできごとでも起きないかぎり、この先もずっと「りんご」であり続けるだろうし、「犬」は「犬」であり続けるだろうし、「太陽」は「太陽」であり続けるだろう。有形無形問わず、「人間」は万物に刺青を彫り入れてきたし、これからもそうし続けるはずだ。世界は刺青にまみれている。
先日、家の棚を整理していた母から、一枚のメモを見せてもらった。そこには、私に命名する際に考案された名前の候補が、十ほど列挙されていた。実際に私に名付けられたものも候補のひとつとして含まれていた。男の子だった場合と、女の子だった場合と。優、壱成、千花歩、などが特に印象に残った。それらは結局、私の身体、私の人生には彫られなかった。私には別の名前があり、私はそれをとても気に入っている。そのメモが書かれたとき、私はどの名前になってもおかしくなかったのだ、と考えるのはおもしろい。私は優だったかもしれず、壱成だったかもしれず、千花歩だったかもしれない。しかし、いずれでもない人生をいま生きている。不思議なものだと思う。ちなみに筆者の名前、嶌山景というのはペンネームである。私が私に自ら彫り入れた刺青だ。特に由来はないし、いまのところ愛着もない。
ケリー・リンクの小説に「いくつかのゾンビ不測事態対応策」という、鳥肌ものの素晴らしい中編があって、その話に登場する人物たちは、着せ替え人形のようにその名前を次々に変えてゆく。ちなみに一人称小説ではなく三人称小説であるから、三人称的な語り手が、彼/彼女らを名指す際に、都度別の名前を付与している、といってしまっていいと思う。
古代人および未開の人々にとって、話すこと、すなわち発話として音を発すること、ものの名を発音することは、軽んじられてはならない何かを意味する。なぜなら発話は、一度口から発せられれば、一見、最も日常的で無害な対象や人物から何らかの隠れた威力を呼び起こし、自然および人間にかかわる事象の成り行きに強力に影響し、多くの場合、それらを危険にさらすことになるからである。あるものが何々であると述べたり言明したりすることは、同時に、その対象を実際に当の「何々」にすることである。聖書ヘブライ語では、例えば動詞の使役形(いわゆるヒフイル形)は、言明することと何かを為すことを区別しない。
(井筒俊彦『言語と呪術』P.43)
名を発話することは、もはや名指された対象の単なる心的形象を呼び起こすことではなく、対象の生き生きとした魂をそのまま動き出させることである。それが影めいて不可視であっても、記憶の彼方の果てしない深みから呼び寄せられた「何か私にはわからないすごいもの」として、そこにまざまざとあるのだ。
(井筒俊彦『言語と呪術』P.98)
井筒俊彦が『言語と呪術』で述べているように、名前はときにそのものの存在の根幹に絡みついて分かちがたくなる。それは呪いとして機能することもあるだろうが、祈りとしてもまた機能しうるだろう。かつてレイカーズなどでプレイしていたNBA選手の、ロン・アーテストは、2011年に本名を「メッタ・ワールド・ピース」に改名した。当時高校生だった私は「おもしろいことするな」くらいにしか思っていなかったが、その決心の背景にどんな思いがあったのだろう、といまになって想像する。(なおメッタ・ワールド・ピースは2020年5月にメッタ・サンディフォード=アーテストに改名している)
「いくつかのゾンビ不測事態対応策」には名前の呪縛に囚われない爽やかな解放感があるが、まさしくその解放感(≒交換可能性)が言い知れぬ寂しさを強烈に喚起しもする。ひととひとが出会うことのかけがえなさと、その出会いにあらかじめ内包された避けがたい哀しみを、ぴったり同時に感じてしまうのだ。むずかしい、と思う。私はいつも私の変容の可能性を探っている。どうしたら私から遠く離れた存在に近づけるだろうか。死ぬまでこの、たったひとつの身体の内で生きるほかないのだろうか。精神と呼ばれるものはこんなにも分裂的だというのに。そんなことを憂いている。けれど私がほかでもない私であり続けているからこそ、身の回りの大切なひとたちと、いまのような大切な関係性を築いてこられたのだということも、よくわかっている。物語があるところには、時間の積み重ねがあり、行為の、出来事の積み重ねがある。人生とはそのまま物語であるらしい。私はその物語性にわずかにでも抗っていたいのかもしれない。なんでもかんでも物語として回収されてしまうことに、少なからず暴力を感じる。しかし私は物語の恩恵をたぶんに受けて、幸福を感じてもいる。私に私の積み重ねがあるように、あなたにはあなたの積み重ねがあり、そのふたつが交わったところに関係が生じる。「いくつかのゾンビ不測事態対応策」を読んでいて、尊さと寂しさを同時に覚えるのは、交わりそうで交わらない、交わらなさそうで交わっている、そのあわいに留まったまま文章が書かれているからではないか。私はひどく矛盾した人間だと思うが、そんな矛盾をこそ大切にしたいという気もするし、そんな矛盾を描いた作品に強く惹かれる。
言葉の呪縛から言葉でもって解放されることが可能なように、実は刺青の絶対性もまた、その刺青そのものによって塗り替えられてゆく。
刺青とは、もちろん被刺体(私の造語である)そのものの意志から、出発せざるをえない。構図は、当初においては被刺体に従属していた。しかし、それは作業の進行とともに物化して、ついには被刺体を圧倒してしまう。原構図が完結したとき、その絶対性はみせかけにすぎない。寄生虫が、宿体を侵蝕するように、刺青は、被刺体をくいあらす。人面瘡のように、生き、呼吸し、成長し、変化する。九条の龍が、体にまといつき、肌をなめつくし、すっぽりとおおう夢に、何度うなされたことだろう。
(松田修『刺青・性・死』p.15)
キャンバスに描かれた絵が自ら生き生きと色彩的な律動を開始するように、ひとの皮膚に彫られた刺青もまた、自らの生を生き始める。
タイトル詐欺かというほど「パッサカリア」の話が始まらないことに辟易しているひともいるかもしれないが、私も同じ気持ちなのでどうか怒らないでほしい。正直に申し上げると、この原稿を書き始めてからいまこの文章に辿り着くまでかなりの時間が経過しており、過去の自分のこころづもりがいまや霞んで見えなくなってしまった。私はなにが書きたいのだったか。ここで一旦、自分なりにアイデアを整理しつつ軌道修正したい。
一度世界に姿を現した言葉は、自らの力を制御することができない。井筒俊彦が『言語と呪術』で述べているように。それは印刷された本のなかの言葉も同じことであって、そこから刺青のもつ絶対性を連想して書き始めたのだった。言葉が存在を規定するものの例として、命名することについて書いた。それから、命名の権力を解体してみせる小説としてケリー・リンク「いくつかのゾンビ不測事態対応策」をとりあげた。言葉はときにアイデンティティの根幹を形成するが、まさにその言葉の効力を逆手にとってアイデンティティの流転を描いてみせているところに、感動したのだった。実は刺青にもその逆説が働く。その例を松田修の『刺青・性・死』にみた。それらは私が日頃から考えているテーマとつながる。ひとつの固着したものでありながら、その姿をいかにねじ曲げて生きられるのか。そのものでありながら、いかにそのものを超越できるのか。私はいかにして私でないものに変容できるか。「パッサカリア」もまた、その方法をきわめてラディカルに提示してみせる小説である。言葉の絶対性を、言葉自身が、言葉でもって溶解すること。しかし当然そこには、作者の類い稀なる創造がある。
「パッサカリア」は奇妙な小説で、物語という言葉から一般的に想起されるような筋立ては存在しない。あるひとつの(?)死をめぐって断片的な描写・回想・説明がなされるのだが、それは何度も細部を入れ替えながら、繰り返し語り直される。死体だったものが案山子にとってかわられたり、ある人物の行動が別の人物によって実行されたりする。その執拗さはひとつの事件に対してあらゆる可能性を考え抜こうとする刑事のようですらあるが、その目的はある答え(犯人)に辿り着くためのものではなく、むしろ、答えの唯一性を撹乱することにある。A24配給の映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が映画関連の話題をかっさらっているこの頃(執筆当時)であるが、「パッサカリア」もまた多宇宙を現出させる試みとして読むことが可能だと思う。そしてその試みはとてつもないレベルで成功している。個人的にはクロード・シモン『アカシア』を読んでいたときの興奮に近しいものを感じた。そこにおいて多宇宙は未来のテクノロジーによってではなく、「書く」ことによって存在を始める。存在を発見されるといった方が適切かもしれない。いやどうだろう。世界は書かれる前から存在していたのか。それとも書かれたことによって存在を始めるのか。書く/書かれることのSF。書く/書かれることのミステリー。実際、「パッサカリア」で起こるできごとは書かれた伝記の一部であると仄めかされもするのだが、それが真実なのかどうかは判然としない。
いくつかの幻像を拡大し、かすを取り除き、その闇を深めてゆくなら、相互に入れ替え可能な幻像同士のあいだに生ずる埋めがたいずれのなかから、あるとき、攻撃本能と混乱に満ちた脱線と敗走の世界がにわかにあらわれるだろう、それこそまさにこの机で、何年も放置された跡が亡霊のように染みつくこの冷えきった邸で、かれの取り組んできた課題だった、この邸ではすべてが郷愁の響きを帯び、恐怖を引き起こす夜もあった、夜に出没する幻影のせいで、せっかく思い出した記憶もなにひとつとしてもとのままではいられない。
(ロベール・パンジェ『パッサカリア』p.15)
「パッサカリア」のテキストが表現しているのは、可能性の束が収束する前のなにもかもがあり得る状態であるような気がするが、これを小説で成功させるのは凄まじいことだと思う。小説はその特性上、「いま読まれているまさにこの一文」を最初から最後まで読まれ続けることが前提となっており、そこにはどうしても単線的な時間の流れが生じてしまう。それは物語内の時間経過といった話ではなくて、読者の身体に堆積する時間の総量とでもいったようなものである。ある一定量の時間が見出せるならば、そこには物語的なものもまた見出されてしまうだろうし、物語的なものは竜巻のように周縁のさまざまな情報群を巻き込まずにいられないだろう。
訳者・堀千晶の解説によると、パンジェは「パッサカリア」が詩として読まれることを望んでいたらしい。たしかに、時制をあえて混線させたり、多義的な言葉を選んで解釈をいくつにも分岐させたりといった技巧を文章単位で繰り広げ続けるこの小説の構築度合いは、まさに詩のそれであると思う。そう考えると、詩と小説の違いはいったいどこにあるのだろう、という未解決の難題が頭をもたげてきもするのだが、いまはそこには立ち入らない。
十田撓子の「鉱山町」という詩は、冒頭の引用部から次の最終スタンザへと引き継がれて、幕を閉じる。
だから
時は自ら経なければならなかった
誰からも見つからない場所で
(十田撓子『銘度利加』に収録の詩「鉱山町」より引用)
この引用が私の伝えたいことをいくらかでも代弁してくれることを願って、この文章の結びとしたい。
引用文献
ロベール・パンジェ『パッサカリア』水声社、2021年。
十田撓子『銘度利加』思潮社、2017年。
井筒俊彦『言語と呪術』慶應義塾大学出版会、2018年。
松田修『刺青・性・死 逆光の日本美』講談社、2016年。
<PEDES連載エッセイ「綴ら折り」第三回>