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声にたよる

二宮 豊

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 ぼくはあまり喋らないほうなので。そんなことを言うと、他人からは怪訝な目で見られる。「二宮さんは、よくおしゃべりされる方ですよ」と言われるのだ。ぼくには、いまだにその言葉が信じられない。話を聞けば、ぼくはとてつもなく喋る人間ではないけれど、喋らない人間と言うには、喋り過ぎているらしい。そうかあ。まあ誰かといっしょにいて、一言もしゃべらない、なんてことはないけれど、それども沈黙を守っている時間のほうが多い気はしている。まあでも、思い返してみれば、なにか頭のなかで閃くことがあると、ペラペラと話している、ような気もする。しかし、それをうまく言葉にできず、どもってしまい、自分でなにが言いたいのかまとまらないまま、適当なことを喋って終わりにしている。
 人間は、まず言葉を喋るようになる。いきなり言葉を文字として書くことはできない。声に出すようになり、その後、文字を覚えるのだ。文字は人間社会のなかで、極めて重要なツールだ。様々な情報を、文字によって伝達し、そして文字によってさらに次へ渡す。早い話、これが記録するということだ。文字が生まれるまでは、人間は口承で情報を受け渡していた。口承において、受け継がれる情報が変化してしまうことは必至だ。それほどに、人の話す内容を汲み取り、次へ受け渡していくということは困難なことなのだ。
 書いてあることがすべてなのだから、文字であれば情報の変化はないと言える。と言えるだろうか?そもそも、人に伝わる文章を書くことは至難の業だ。頭のなかで考えていることを文字にしただけでは、人には伝わらない。人が思考するとき、記憶の様々な要素を取り出し、繋ぎ合わせ、都合よく改変し、整合性を持たせている。しかし、他人は、人の頭のなかを覗けはしない。だから人は、手を替え品を替え、頭のなかの情報を書き出し、紙やモニターの上で順番を入れ替え、そして、こんな陳腐なことを考えていたはずじゃないのに、なんてことを思い、書いた内容を消してしまうのだ。
 ぼくは、物を書くとき、ある種の完璧さを求めたくなる。そのせいで、完成には時間がかかる。書くことが苦しいということはないのだが、リヴァイズにどうしても時間をかけたくなってしまうのだ。その点、喋りはそんな完璧さを求めたくなることもない。もちろん、喋りながら、おおまかな話の筋みたいなものを、整理はしているけれど、ぼくは話し下手なので(自分ではそう思っている)、完璧にはならない。ポッドキャストを聴いていると、そんな人たちが大勢いることに気がつく。聴き終わって、「結局なんの話だったんだ?」というエピソードも少なくない。だけど、そんな曖昧さも、声の記録なら許される気がするのだ。


PEDES連載エッセイ「詩と投稿とサイバーと」3

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