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詩人たちの自由な居場所

二宮豊

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 歴史を振り返ってみれば、詩人たちは、仲間を集い、自らの作品を発表するための場を、自分たちで創出してきた。アメリカのモダニズムを代表する詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、詩誌『コンタクト』を立ち上げた。公民権運動の源泉を探すとき、必然的にその名を見ることになる詩人アレン・ギンズバーグは、シックス・ギャラリーにて仲間の詩人たちとポエトリーリーディングを行い、「詩は声の文化」であることを世に再確認させるきっかけを作った。萩原朔太郎は、室生犀星と詩誌と立ち上げた。城戸朱里、広瀬大志、田野倉康一らが立ち上げた『洗濯船』は、今や希少価値の高い同人誌として、取引されている。詩誌であったり、リーディングであったり、時代によってその形式は違えど、ここには挙げきれないほどの詩人たちが、自分たちの「プラットフォーム」を作り、そこで自由に作品を発表してきた。
 いま、ぼくは、詩友と二人でPEDESを運営している。同時に、現代詩手帖とユリイカへの投稿も行なっている。しかしこの二誌に投稿することは、いわゆる同人誌に作品を寄せることとは、まったく意味合いが異なる。投稿とは、権威たる詩誌に、著名な詩人が選者として立ち、その人たちの目に留まることで、初めて作品が掲載される。当たり前だが、作品はふるいにかけられている。いかなる作品を投稿するも自由だが、掲載の門は狭い。そしてマジョリティは、投稿なのだ。
 どちらもあっていいと思う。しかし、あらたな作品が世に送り出される道が、投稿のために大きく取られている状況は、少し悲しく思える。もっと詩誌が増えて、そこからあたらしい作品が世に送り出されてもいいはずだ。ちなみにぼくが個人的に好きなアメリカ詩には、新人賞や新人投稿というものがあまりない。その代わり、同人や、自費出版、そしてウェブでの発表が盛んだ。もちろん、出版社へ作品を送るという手立てもある。
 自ら詩誌を立ち上げようという詩人の数は決して多くない。手間暇を考えれば、それはそうだ。その時間をかけるくらいなら、作品を書くことに時間を費やそうという考えには、十分賛成できる。書くこととは、最終的には孤独な作業なのだから。
 じゃあ、既存の詩の集まりにでかければいいじゃないか。そんな声が聞こえてきそうだ。日本には、多くのプロの詩人が詩の塾や教室を開いている。まず、個人的には、塾や教室という文字を嫌厭してしまう。もちろん、義務教育をするわけではないはずなので、参加すれば学びもあるのだろう。日本で生成されてきた、「教育」というネガティブなイメージを逆手にとったネーミングなのだ。しかし、そうはいっても、集まりの名称は、その場の雰囲気を作り上げる力を持っていると思うのは、ぼくだけだろうか。もう一点あるとすれば、集まりの中心には、何者でもない人たちがいてほしいと思ってしまう。
 だからこそ、書き上げた作品を自由に発表できる場所があってもいいのではないかと思う。作品の価値を、分かち合える誰かがいる。読んでくれる誰かがいる。それだけで、書き続ける理由の一つになるのではないかと思う。

PEDES連載エッセイ「詩と投稿とサイバーと」2

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